第5章 自殺?

杉浦正弘と杉浦三芳が、慌ただしく駆けつけてきた。

三芳はびしょ濡れの杉浦美雪を抱きしめ、声を震わせる。

「美雪……大丈夫!? お母さん、怖かった……!」

正弘の顔色は最悪だった。振り返りざま、杉浦秀明に怒鳴る。

「何を突っ立ってる! 美雪を病院へ! 今すぐだ!」

美雪は唇をかすかに震わせたが、声にならない。次の瞬間、ふっと意識を失った。

「美雪っ!」

三芳の悲鳴。

正弘が美雪を横抱きにし、三芳が必死についていく。杉浦家の三兄弟も、その後ろを追った。

――誰一人として、岸辺に取り残された杉浦杏奈を振り返らない。

杏奈はタオルを肩に掛けたまま、その場に立ち尽くしていた。動きもしない。呼び止めもしない。

前の人生なら、気にした。傷ついた。悔しくて、泣いて、喚いた。

でも今は――ただ、よかったと思うだけだ。

ここまで露骨に扱われたのなら、こちらが手加減しなかったところで、誰にも文句を言わせない。

杉浦秀明が、ふと思い出したように足を止めた。そして振り返る。

杏奈はまだ岸にいた。追いかけてもこない。声も上げない。

胸の奥が、きゅっと痛んだ。

秀明は戻り、自分の上着を脱いで杏奈の肩に掛ける。

「杏奈。美雪の容体が重いんだ。みんな心配するのも当然だろ……気にするな。今から病院へ行こう、な?」

杏奈は顔を上げて彼を見た。目の縁が赤い。

「大丈夫。秀明……美雪が無事なら、それでいい」

頬の水滴を拭い、横を向く。瞳に、温度は一欠片もなかった。

そのとき、ふと表情が止まる。

視線の先――人だかりの最後尾にいる、見覚えのある影。

灰原仁司。

彼はまっすぐ杏奈を見ていた。ずっと前から見ていたかのように。

前の人生の記憶が、喉の奥に刺さる。

杏奈は息をひとつ吸い込み、素早く視線を引きはがすと、踵を返して立ち去った。

借りがある。そう、覚えているから。

灰原仁司は一部始終を見て、口元をわずかに吊り上げた。

「……面白い」

――

病室には、消毒液の匂いが漂っていた。

杉浦美雪が目を覚ますと、頭はまだぼんやりしていて、喉が焼けるように痛い。

横を見ると、杉浦三芳がベッド脇で突っ伏して眠っている。杉浦正弘はソファで書類に目を落とし、三人の兄も揃っていた。

涙が、いきなり溢れた。

「……お母さん……」

三芳が跳ね起きる。

「美雪! 目、覚ましたの!?」

全員が一斉に寄ってくる。

両親の心配そうな顔を見て、美雪の涙はさらに増した。だが――自分をこんな目に遭わせた相手を、忘れるはずがない。

「あ……ん……な……!」

三芳の手首を掴み、美雪は怯えと怒りでぎらつく目を向けた。

「私を突き落とした……殺そうとしたの!」

病室が、一瞬だけ静まり返った。

杉浦啓介の表情が氷のように冷たくなる。美雪を見据えたまま、低く問う。

「杏奈が、お前を水に突き落としたって言うのか?」

美雪は必死に頷く。

啓介はそれ以上何も言わず、踵を返して扉へ向かった。廊下にいた杏奈の腕を掴み、そのまま病室へ引きずり込む。

「杏奈」

啓介の声は凍りついていた。

「美雪は、お前が突き落としたと言っている。納得できる説明をしろ」

杏奈は、ベッドの上の美雪を見た。

美雪は三芳の胸に縋りつくように身を寄せ、怯えきったふりをしている。だがその目は、毒々しい憎悪で杏奈を刺し殺す勢いだった。

杏奈は俯き、瞳の奥の笑みを隠す。声だけを、ひどく惨めに震わせた。

「啓介……私、泳げないの」

啓介の動きが、わずかに止まる。

「みんな知ってるでしょう……?」杏奈は泣き声混じりに続ける。「泳げない人間が、人を突き落として……それから自分も飛び込む。そんなの、筋が通ると思う?」

濡れた髪を耳にかける。その拍子に、首筋に広がる青紫の痕と、右手の血で濡れた傷口が露わになった。

手の爪痕は本来もう塞がりかけていた。けれどさっき廊下で、病室の中から聞こえてくる杉浦家の焦燥だけを聞かされて――苛立ちのまま、杏奈は自分で傷を裂き直したのだ。

痛みがないと、正気を保てない。でないと、すべてを壊してしまいそうだった。

「これは、美雪が……」

杏奈は血の滲む手を、啓介の前へ差し出す。

「きっと自殺を後悔して……必死に私を水の中へ押し込んだ。助かりたかったんだと思う……」

自殺。

杉浦家の人々が息を呑む気配が走る。

杏奈はポケットからスマホを取り出し、録音を再生した。病室に、美雪の声が流れ出す。

「私の存在がそんなに苦しいなら……いっそ死んだほうがいい。永遠にいなくなる……」

「私が死ねば……許してくれる? お父さんとお母さんに、もう怒らない?」

空気が凍ったように静まる。

全員が信じられないものを見る目で、ベッドの美雪を見た。

啓介が眉を寄せる。

「……どうして録音なんか持ってる」

「前から、美雪が変だと思ってたの」杏奈はかすかに肩を震わせる。「すごく機嫌がいい日もあれば、急に『生きていけない』って言う日もあって……心の病気かもしれないって。だから今日、川に呼ばれたとき……こっそり録ったの。先生に聞いてもらおうと思って……」

杏奈は啓介を見上げる。

「啓介。録音しちゃいけなかった……? 謝る。でも、本当に怖かったの。美雪に何かあったらって……」

啓介は答えない。ただ重い目で杏奈を見て、嘘か本当かを量っている。

杏奈は視線を逸らさず、今度は杉浦秀明を見た。

「秀明。あなたが私を引き上げてくれたとき……美雪の手に酸素ボンベがあるのが見えた。あなたも、見たよね?」

秀明は一瞬きょとんとし、それから反射的に頷いた。

「……見えた、気がする」

言い終えた瞬間、顔色が変わる。

「……まさか。誰かが、事前に水の中へ酸素ボンベを?」

それが意味するものは何か。

最初から水に入るつもりだった。溺れ死ぬ気はなかった。落水は――事故ではなかった可能性。

正弘の目が沈む。

「今すぐ人を出せ。酸素ボンベを探して持ってこい!」

「やめて!」

ベッドの上で、美雪の顔から血の気が引いた。全身が震え出す。

言い訳したいのに、言葉が出てこない。真相を調べられたら終わりだ。

完全に、壊れる。

杏奈は美雪の怯えた顔を見つめ、静かに息を吐いた。

「美雪……あなた、何がしたいの?」

そして、お姉ちゃんを演じるように近づき、美雪の手を握る。声は心配そうで、優しさだけでできているみたいに甘い。

「死ぬのは怖くない。でも……みんなをこんなふうに苦しめてまで、何が欲しいの?」

指先が、少しずつ締まる。骨が軋むほどに。

美雪は杏奈の心配顔を見て、身体の芯から冷えた。

この手が、どうやって自分の首を絞めたのか。どうやって何度も何度も水の中へ押し込んだのか。

溺れていく自分を見ながら、杏奈がほとんど狂ったように笑っていた顔も――忘れられない。

杏奈はなおも柔らかく問いかける。

「美雪。酸素ボンベまで用意してたのは……杉浦家を出ていきたかったから?」

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